選帝侯についての簡単なメモ anchor.png

元々ゲルマン人の慣習としてあった、「主君を選出する」という行為を国家元首である皇帝にも適用したものが、神聖ローマ帝国に於ける皇帝選挙と選帝侯というシステムであると言えます。

選帝侯は、ドイツ語で Kurfürstと言います。より正確な英訳はPrince-Electorとなりますが、一般的にはElectorと呼ばれます。この場合の'fürst'や'prince'は、princepsの本来の意味である、領地の主、もしくは一家の長と言った様な意味であり、いわば諸侯という意味と考えて良いでしょう。

日本語でも似た様な話で、良く聞く、選帝「侯」であるのに、王やら辺境伯やら…と言う話は、この「侯」が称号に於ける「侯」という事が前提になっているわけですが、諸侯の「侯」であるなら、彼らが公でも侯でも良いことになります。

ここでは、あえて神聖ローマ帝国と選帝侯の細かい起源の話を省きますが、1356年皇帝カール四世が発布した金印勅書によって、明確にシステム化されます。このときに、7つの選帝侯位が創設されます。これらは、基本的に世襲ですが、様々な理由から停止・廃止されたり、他へ移転したりしています。

1648年に一つ増え、1692年に一つ増え、1777年に一つ減り、1801年に二つ減り、1803年に三つ増えています。

これらをまとめると、以下の様になります。

  1. マインツ大司教«Archbishop of Maintz» (1356年創設) → 1801年レーゲンスブルク大司教«Archbishiop of Regensburg»へ移転(ライン川西岸をフランスへ割譲のため)
  2. トゥリアー大司教«Archbishop of Trier» (1356年創設) → 1801年廃止 (ライン川西岸をフランスへ割譲のため)
  3. ケルン大司教«Archbishop of Cologne» (1356年創設) → 1706年資格停止、1717年復権→ 1801年廃止 (ライン川西岸をフランスへ割譲のため)
  4. ベーメン国王«King of Bohemia» (1356年創設; ベーメン国王は14世紀以降選挙に参加せず、17世紀には今日に参加しなかった模様。1708年に復帰。)
  5. ライン宮中伯«Count Palatine of the Rhine» (1356年創設) → 三十年戦争中の1621年に資格停止、1623年バイエルン公«Duke of Bavaria»(ライン宮中伯家であるWittelsbach家の分家)に選帝侯位移転 → 1706年資格停止、1717年復権→ 1777年バイエルン公家断絶によりライン宮中伯家が選帝侯位を継ぐ(下記参照)。
  6. ザクセン公«Duke of Saxony» (1356年創設)
  7. ブランデンブルク辺境伯«Margrave of Brandenburg» (1356年創設)
  8. ライン宮中伯«Count Palatine of the Rhine» (1648年創設) 三十年戦争中に剥奪された選帝侯位をウェストファリアの和約で回復することになったが、新たに選帝侯位を創設して叙す形となった。 → 1777年 バイエルン公家断絶によりライン宮中伯家がその選帝侯位を継ぐ事となり、この第八選帝侯位は廃止となる(上記参照)。
  9. ブラウンシュヴァイク-リューネブルク公«Duke of Brunswick-Lüneburg,» (1692年創設、1708年帝国議会承認) Brunswick-Lüneburg (Braunschweig-Lüneburg)一族のうち、ハノーファー«Hannover»を領する一家なので、Hannoverで称される場合がある。
  10. ヴュルテンベルク公«Duke of Württemberg» (1803年創設)
  11. バーデン辺境伯«Margrave of Baden» (1803年創設)
  12. ヘッセン-カッセル方伯«Landgrave of Hesse-Kassel» (1803年創設)
  13. ザルツブルグ公«Duke of Salzburg» (1803年創設; 旧トスカナ大公) → 1805年ザルツブルグがオーストリアに編入されたため、その代わりにヴュルツブルグ公«Prince of Würzburg»となる

神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ二世(1792年即位)が退位して帝国が瓦解するのが1806年であるから、最後の四選帝侯は実際に選挙に参加していない。

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称号について anchor.png

選帝侯の称号と敬称に関して、まずは称号から考えてみよう。「サウスアイランド公の称号」の記事のコメント欄で総督が悩んでおられるコメントから引用する。

His Serene Highness The Duke and Elector of Southisland

敬称部分はおいといて。

たしかに、上記リスト最後のザルツブルグの様に、公爵と選帝侯と同時に授爵された様な場合には、その説明の文としては'created the Duke and Elector of Salzburg'の様な書き方をするのですが、一般的にはこのように重ねて書きません。

たとえば:

  • Elector of Salzburg

の様な書き方をします。何故でしょうか。というのも、先の総督のコメントに於ける称号は、仮にサウスアイランド公が選帝侯たった場合の、選帝侯自体の称号が'Elector of Southisland'であることを前提としているものです。

しかしながら、例えば、ザルツブルグの選帝侯自体の称号は、'Elector of Sazburg'ではないのです。では何かというと、選帝侯の称号は英語で言うと:

  • Elector of the Holy Roman Empire

なのです。

では、Elector of Salzburgというのは何かというと、

  • Duke of Salzburg (and) Elector of the Holy Roman Empire

の省略形なのです。ここではザルツブルグを例に取りましたが、'Elector of Saxony'等の表現も同様です。

こういった省略パターンは、称号に関してはあちこちに見受けられるので、じっくり見てみることが重要です。

この'Elector of X'という省略パターンを見てみると、先のコメント欄で指摘されているとおり、Duke, Margrave, Landgrave, Count Palatineはこのパターンなのに、ベーメン国王はこのパターンに当てはまっていません。これはおそらく、選帝侯がroyal rank and precedenceを有するとされていたからでしょう。要するに王に准ずる地位である、ということです。

だからこそ、Kingよりも低い地位の選帝侯はElectorを称し、KingはKingを称することとなります。

ハノーヴァーが英国王について以降、並びにブランデンブルグがプロイセン国王となって以来の両者の取り扱いには注意が必要です。神聖ローマ帝国内の地位としては従来と変わらないものの、国際的に国王であるので、帝国でも国王としての待遇を受けていたはずです。

では仮にGrand DukeがElectorになったらどうだったかというと、実はドイツでは1806年までGrand Dukeは存在しなかったので、その心配はありませんでした。Margrave of BadenがGrand Dukeになったのは、帝国崩壊後です。

さて、あちこちで1806年以降もヘッセン選帝侯«Elector of Hesse»という称号を見受けるかもしれません。これは、特殊例です。選帝侯であったLandgrave of Hesse-Kasselは1806年にナポレオンによってウェストファリア王国にその領土が併合されて一端消滅します。1815年ウィーン体制下に成立したドイツ連邦に於いて、Hesse-Kasselは'Elector of Hesse'という称号を採用します。

神聖ローマ帝国が消滅したのに、何故選帝侯なのでしょうか。バーデンの様に大公になっても良かったのではないでしょうか。実は、ヘッセン家の分家であるヘッセンーダルムシュタット«Hesse-Darmstadt»家がGrand Dukeへ昇格したことと、他にもある分家との中で、旧選帝侯家の差別化を図る意味であえて、最早意味のない「選帝侯」という称号を選択したそうです。

敬称に関しては次回。

初版公開日2004-11-04T23:43:00+09:00
最終更新日2009-12-05T14:15:22+09:00

Tag: 欧州大陸称号 称号考察 神聖ローマ帝国


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1: Lucius (2004/11/05 04:56) l.aquarius(あっとまーく)excite.co.jp
なるほど~。ザクセン公がポーランド王になった時期も同様なのかしら?あと、些細なことですが「侯」が「候」になっています(^^;
2: 公爵 (2004/11/05 05:22)
ありがとうございますいや~、勉強になります。
敬称編、楽しみにしております。
3: dzlfox (2004/11/05 21:34)
Lucius氏
>ザクセン公がポーランド王
同様だと思います。
確認していませんが。
後で、例として付け足させていただきます。
(ぱっと思い浮かびませんでした(笑))

>「侯」が「候」
直しておきました。
ありがとうございます。
Atokもあんまり信用がなりませんね(苦笑)
元EGBRIDGE使いの私。

公爵・総督
リンク先の記事のコメントから。
>どこの帝国の選帝侯なのかを定義してないといけないわけですね。

そうですね。現世界では、選帝侯といえば、HREのものですし。
まぁ、'Prince-Elector of an Certain Empire'みたいにごまかす。とかいう手もありかと(笑)
4: 公爵 (2004/11/06 10:25)
EGBRIDGE・・・昔私も使っていました。懐かしい・・・。
5: Lucius (2004/11/07 10:30) l.aquarius(あっとまーく)excite.co.jp
授爵権先日立ち読みをしていて、1356年の金印勅書で皇帝以外は授爵権を持たないと決められたという趣旨の記述があったのですが、これは本当なのでしょうか?

#後にプロイセン王は例外が認められた、ともありましたが。

金印勅書の原文(の訳)をネット上で探しているのですが、なかなか見つかりませんねえ(^^;
6: dzlfox (2004/11/07 11:00)
とりあえずドイツ語版
http://www.erlangerhistorikerseite.de/netzsem/gb/gb_frame.html

英語版
http://www.yale.edu/lawweb/avalon/medieval/golden.htm

原文はラテン語だと思うのですがとりあえず。どっかにありそうな気もしますが。
7: 公爵 (2004/11/07 11:56)
Lucius様
ええ?本当ですか?
と言うことは、帝国内の領邦君主が家臣に爵位を与えることはできないってことですよね?
もし領邦君主が家臣を叙爵したい場合は、皇帝に奏上して皇帝から貴族に叙爵して貰うのかな・・・?
8: dzlfox (2004/11/07 12:01)
うーん、たしかknightは領邦君主も授爵出来たと思いますが…。
9: Lucius (2004/11/07 14:31) l.aquarius(あっとまーく)excite.co.jp
ありがとうございます~。検索すると用語説明ばかりがヒットして困っていました(^^;

> と言うことは、帝国内の領邦君主が家臣に爵位を与えることはできないってことですよね?

帝国というものが存在している限りは、帝国貴族の授爵権は皇帝の独占というのが筋でしょうね。ただ、神聖ローマ帝国が解体した後は違うかもしれません。前に話題にしたEugène de BeauharnaisのHerzog von LeuchtenbergやFürst von Eichstättは、おそらくBayernの爵位でしょうし。

大公国や公国でも、独立国となった後は授爵できたのかもしれませんね。ルクセンブルクやリヒテンシュタインはどうなのかしら。君主がGroßherzogやFürstだと、それより下の爵位しか授爵できない気もしますが。

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Last-modified: 2009-02-14 (Sat) 22:24:26 (JST) (792d) by dzlfox

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