ヴィクトリア女王と女官たち 
1837年、若く溌剌とした18歳の女王が誕生することにより、鬱屈としたハノーヴァー朝宮廷の雰囲気が一変します。1840年にアルバート公とヴィクトリア女王との婚姻がなり、社会の都市化および発展ともあわせて、英国は一気に華やかな雰囲気になります。
女王のそばに侍る
しかし、それも1861年12月14日をもって一変します。夫君のアルバート公の薨去です。
最愛の夫を本来治ったであろう腸チフスで亡くした女王の衝撃はすさまじく、以来ほとんど喪服で過ごしたとも言われるほどでした。以来女王は、ファッションに興味を示すこともなくなり、将来の明るい性格もなりを潜めがちになります。
ヴィクトリア宮廷に「きっちりさ」を持ち込んだのはアルバート公の方で、女官にしてみれば気楽な女王の独身時代の宮廷の雰囲気の方が好評だったようです。しかし、それでも女王が明るくファッションに興味があった時代には、「きっちりさ」もさほど苦にはならなかったでしょう。
それ以来、女官たちのある意味で受難の時代が始まりました。重苦しい上司に仕えるのは、たまったものではありません。しかも、女王は次第に女官たちのファッションに厳しくなってきました。つまり、以前のような最先端で且つファッショナブルな服装を好まなくなったのです。新入りの女官が少し派手な服装や化粧をしていると、その上司の女官を通じて苦言を呈したりされたようです。
この様な時代において多くの女官たちは「女官生活」の退屈さを訴えていますが、女王初期のころに侍り、いったん去ってまた戻ってきた女性の中には「以前とさほど変わらない」といっている人もいたようです。これは「以前も同じように退屈だった」という意味ではなく、「女王の魅力は以前と変わらない」という意味です。
実際、皮肉っぽくなったとはいえ、ヴィクトリア女王の魅力は健在でした。もともとシャイな女王は、人前でオープンになるということが出来なかったタイプのようですが、それだけに細かい心遣いを見せており、多くの女官を友人であるかのように思っていたようです。
しかし、こういうヴィクトリア宮廷も、1901年1月22日、夫の愛したワイト島のOsborne Houseで女王が崩御したことによって終わりを告げることとなります。そのときに侍っていたのはDowager Baroness Ampthill (Lady of the Bedchamber)とMiss Harriet Phipps (Woman of the Bedchamber)でした。
この記事ではladies-in-waitingの制度については端折っていますが、いずれじっくり書くかもしれません。
ヴィクトリア女王夫妻の微笑ましいエピソードについてはサウスアイランド公の「夫婦喧嘩」で。
| 初版公開日 | 2005-01-22T18:08:00+09:00 |
| 最終更新日 | 2009-12-05T14:15:20+09:00 |
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- 1: サウスアイランド公国ブログ自治領/夫婦喧嘩 (2005/01/24 00:25)
- かつて7つの海を支配し、太陽の沈まぬ国と呼ばれた大英帝国。
その絶頂期に英国に君臨していたのはヴィクトリア女王でした。
ヴィクトリア女王とその夫君(王配)アルバート公は、大変仲の良い夫婦として
有名でしたが、やはり人並みに夫婦喧嘩もしたそうです。
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こういうページもありました:
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/England/Ketuyu.htm
何でまたいきなり突然変異したんでしょうね。
いきなりだから、突然変異なんでしょうけど。
そういえばむかし久邇宮良子女王が後の昭和天皇に輿入れなさる際に、島津家の色盲の劣性遺伝子を継いでいることから、山県有朋が反対していたことがありましたね。
色覚異常(今は色覚特性と呼べと言われますが)も伴性劣性遺伝の一つなので、もし良子女王が保因者だった場合はその子の親王に50%の確率で色覚異常が発現し、内親王は50%の確率で保因者となります。
明らかにこじつけでしょうが、軍では色覚異常のある者は将官になれないのに、全軍を統帥する天皇が色覚異常ではいけないとか言われたりもしたようです。
私自身色弱なので、特に意識せずにいろいろ語を使っているのですけど…。