蜜柑と御掻で雑感綴り - 最新エントリー
話題としては若干古いがgoal.comに川崎フロンターレの選手を擁護する立場でコラムが載っていたので、少し記しておこう。
はっきり言って、このコラムは論点がずれている。
「敗者の心情」を強調しているが、負けたとしてもホイッスルで一旦それを終わらせるのが「フットボールの精神」である。
それこそが前近代フットボールがパブリックスクルーなどで重宝された理由でラグビーにはその精神が「ノーサイドの精神」として受け継がれている。
イギリスではサッカーフットボールというのは労働者階級のスポーツである。
これは若干時代がずれてきてはいるが、まだまだ健在な考え方で、数年前の英国の女性に対するアンケートでも「フットボール(サッカー)ファンを公言する男は恋人にしたくない」割合が結構多かったように記憶している。
だからと言って、このフットボールの精神というのは薄れてはならないのだ。
いくらプロ化しても偉大なるアマチュアリズムが根底にあり、そこかあスポーツマンシップに発展していっている。
それゆえフィジカルコンタクトがあそこまで強いフットボールが相互信頼関係のもとに存在しうるのである。 (それが根底にないと単なるラフプレーで終わってしまう)
だからこそ現役最終年でシアラーがサンダーランド戦でタックルをうけて故障してしまった時、彼はあっさり「これこそがタインウェアダービー」とあっさり言ってのけたのである。
日本がいくら英国とはフットボール発展の歴史が違っているといっても、FAルール(しいてはFIFAルール)の根本にあるものを誤解してはならない。
だからこそ、いくらかのローター・マテウスが1998-1999年チャンピオンズリーグ決勝線の敗戦後の表彰式でメダルを外していた事を例に引いても、それは正当化の理由とはならないのだ。
コラムの筆者は、そのマテウスの行為を「信じられない形で敗者となってしまった男の唯一の抵抗」
といっているが、所詮は負け犬がふてくされているだけである。
いみじくも今回Jリーグかサッカー協会の誰かが言っていたとおり「負けたのは自分達の責任」である。 (もちろん今回の予選のアイルランドの様に色々残念な場合は若干別だろうが)
しかも今回は日本サッカー協会名誉総裁の高円宮妃久子妃殿下がご臨席しておられた。その殿下の御前でこのような行為に及んだのである。
マイナー競技だったサッカーを故高円宮殿下とともに夫婦で支援してこられ、夫君亡きあとはご自身が名誉総裁としてサッカー界を支援してこられた妃殿下の前で、これはないだろう。
はっきり言って、サッカー協会やJリーグが面目を潰されたことは明らかで、それをもって関係者が起こるのは当然である。
この筆者がいう「来賓の前で恥をかかされたから」という程度ではない。
ご皇族の来賓を軽いものと勘違いしているのではないか?
はっきり言って日本国内の事情に海外の例を引くのは私は本意ではなく好きでもないのではあるが、もし仮にFA名誉総裁ウィリアム王子殿下臨席でカーリングカップ決勝(あえてFAカップとはしないでおく)が行われたとして、敗者がこのような態度をとれば大いに非難されるであろう。
アメリカのアメフトのスターがスポーツ親善のために女王陛下に謁見して記念撮影をする時に女王の肩に「ついいつものアメリカ人の癖で」手を回して写真を撮っただけで思いっきりマスコミに非難される国である。
フレンドリーな状況でこうなのだから、ふてくされた態度ならば、いくら女王と王孫殿下の違いはあれど、もっと反響が大きいに違いない。 (といいつつ過去の事例を調べていないので、尻つぼみな議論であるが)
社民党の某党首は「家族制度」に反対で、18歳以上になれば自分の子供であっても散ったことではない、というスタンスであるのは周知の如くであるが、この場合の母子断絶とは「母親が子供との縁を一方的に切る」タイプの母子断絶である。
しかし、現在話題になっている兄弟の母子断絶ぶりはそのようなことではない。
母親が構いたくて仕方ないのに、子供達の方が「そんなん知らんわ」といいつつも、別に縁切りというわけではない、変な「母子断絶」。
一見すると全く断絶していないように思えるが、実は「断絶」であろう。
なぜかといえば、「知らなかった」事は、まぁ、ばかげたことだが、知らなかったのなら仕方がない。
知らなかったなら普通はどうするか?
電話でもして聞けばいいのである(メールでも電報でもいいが)。
「おかん、あれほんまか?」
それで済むのだ。
その後、おかんに聞いたけどこうこうでした、と言えばいいだけである。
知らなかったことはどうでもいいが、知らないうちに数億円が支払われていることを知ったら普通はびっくりして問い詰めるだろう。
そういった感覚が無いのか、うその上塗りだから仕方ないのか、馬鹿なのか、政治的にあえてこうしているのか。
おそらく前三者だろう。
まぁ、しかし、最近我が家で話題になることといえば、「うちも誰かしらん間にお金振り込んでおいてくれる人が無いかな?」という軽い自虐ジョークであるが、もしそうなったらそれはそれで何かに巻き込まれているような状況になっていそうで、怖いもんだが
。注意:色々状況は複雑で裏読みしていけばいくらでも読んで行けるのでしょうが、あえて一番庶民的な疑問を論題としています。
色々な意味で面白くもあり脱力もした仕分け作業もなんとか一段落ついたようだ。
まぁ、その中身の個別論はいちいち言わないが、教材をダウンロード配布すれば余計に費用がかかるということは、蓮舫女史の今後のためにもここで指摘しておきたい。
それはともかく、我が家では日経と京都新聞を購読しているが、京都新聞の左傾化はここ数年本当にひどい。
今回の仕分け作業もいろいろ問題があるという点は言ってはいるものの、まとめて言えば「予算編成作業が透明化されて素晴らしい」という論評である。
一件左傾化とは関係ないように見えるが、数年前より京都新聞は反自民党、親民主党といったスタンスで、自民のことは重箱をつついて非難、民主のことは真綿でくるんで擁護といった塩梅なので、こういった意見も左翼フィルターが掛かっているので、注意が必要である。
ある意味、左翼の巣窟である京都の新聞ぽいのであるが。
閑話休題、事業仕分け、果たして本当に「予算編成作業が透明化された」のか?
答えは否と言わざるを得ない。
街角インタビューでも同様に「よくわかった」とか言っている人がいるが、本当か?
- 「何をもって無駄というのか?」
- 「どういうい国家戦略で何を削っていくのか?」
- 「なぜこれが無駄と判定されたのか?(判定結果についての省庁側からの質問を一切受け付けていないのだ)」
- 「そもそもお前ら誰やねん」
これらが全く明らかになっていないではないか。
いくら出てきた概算要求をフルに書けるプロセスを公開したとしても、そのふるいの網目の大きさや種類を明らかにしていなければ何でこれがダメと判定されたのかが全くわからないではないか。
それのどこが透明化なのか?
ところで、この2週間ばかり蓮舫女史のこの科白がよく聞かれた。
「天下りはいますか?」
(元官僚はいますかというように質問していた時もあったかもしれない)
天下りが是か非かという論議は実は「本当は」きっちりとく結論が出ていないような気がするが、それは今回は置いておく。
問題はこの蓮舫女史のいうところの「天下り」の定義とは何なのか? ということである。
だって、親玉たる民主党政権の天下りの定義が二転三転しているんだもの、こっちはよくわからんよ。
全ての元官僚が一定の地位に迎えられているのは天下りでケシカラン → 民間で数年間働いていれば天下りではない → 民間でそんなに働いていなくとも府省庁斡旋ではなく適材適所なら天下りではない。
蓮舫女史は民主党議員だから一番最後の政府見解に従っているんでしょう。
ということは、今回の事業仕分けも省庁側が「斡旋の事実はなく適材適所と判断」と言っていればOKだったのか?
だからこそ蓮舫女史も「この役員就任がもたらした利益」を聞いていたのかもしれないが、そんなものどこの会社でも容易に出るもんではない。
というわけで、何が言いたいのかというと、どうせやるんなら、もう少し筋道を立ててきっちりとやってほしい、ということ。
ついでに常々思っていることを脈絡なく言うなら、「国家戦略室」を後々「国家戦略局」へ格上げすると行っておきながら、「国家戦略室」と書かれた立派な木製表札を作るのはそれこそ無駄ではないの?
格上げしたら、破棄して新規につくるんでしょう? (そもそも何時格上げされるのかも怪しくなってきたが)
NHKの日曜日の夜にやっているこのコメディドラマ。
実は放送開始前に番宣を兼ねて出演者の横山めぐみが『スタジオパーク』に出演していたのを出張中の車のカーナビで見て知ったのがきっかけて細々と見ている。
私は普段ドラマをあまり見ない人間だが、「客を入れたスタジオでの一般本番撮り」というスタイルが舞台演劇的なライヴ感を出していて面白い。
ミスできない俳優陣はもちろんだが、スタジオのセット(部屋3個ぐらい)の中で話を完結させる脚本家さんも大変だなぁ、と思っていたら、やっぱり舞台の脚本もしている人のようだ。
最近NHKはいろいろ実験的な番組が多くなっていきて面白いのだが、これもまたよかった。(NHKではパイロット番組を作って夜間などに放送し、評判が良ければレギュラー化する試みを行っている)
と思っていたら、最終回は生でやるらしい(そのために時間を9時代に繰り上げ)。しかも、その観客募集を番組終わりでしていた。
思わず笑ってしまったが、現場は大変だろうなぁ。
しかも、よくよくじっくり確認すると、最終回の放送は12月28日月曜日。
まるっきり一か月たっているわけである。
客入れの抽選・準備などがって仕方ないのだろうけど、あまり間が開かないように逆算しておいた方がよかったのではないかなぁ。
最終回前に集中的に再放送をするらしいが、ここまで盛り上がってきた機運が一カ月もつかどうか…。
私はあまりフィギュアスケーティングの中継は見ないのだが、先日のNHK杯の中継で画像が乱れるトラブルがあったらしい。
NHKの調査発表によると「メモリ不足」とのことだが、ソニーによるとデータが受信できない不具合とNHK側の操作ミス、とのこと。
食い違っているところはさておき(をい)、「メモリ不足」とはなんとも懐かしい響きだ。
いまでも種種のコンピュータでは見かけるとは思うが、一般的なPCではよほど変な事態にならない限り見かけなくなってしまった。
Windows3.1か95が出るか出ないかのころだったような気がするが、Loginに連載されていた『墜落日誌』という漫画で、マカーである「夫の人」が「良くわからないトラブルの時はメモリが足らないからだ、と言っておけばそれっぽく聞こえるんだ」
みたいな発言をしていて笑ったことを思い出す。
当時も今も私はマカーじゃないので事情はよくわからんが。
そういえば、この『墜落日誌』の著者の寺島女史と夫の人もいつの間にか離婚されていたようで、年月が流れるというのはいろいろ複雑な話である。
私は毎朝家を出る前に大抵NHKのニュース・天気予報をみているのだが、本日の京都府南部の降水確率は100%
私の気のせいかもしれないが、降水確率100%って久しぶりに見たような気がする。
確かに雨が降っていたので全くそのとおりなのだが。
冬が近くなってきていますが、木々の紅さを見ればまだまだ秋と感じるのは日本人の特権かもしれない。
昔ウェイルズに留学していた時、晩秋近い頃、同じく留学しにきていたケニア人のアングリカンの牧師さんに、「秋だねぇ。もうすぐ冬だけど」という話をしたら、「秋って何?」といわれた。
よくよく考えたら彼の母国には「秋」などないのだった。実際既に厚手のセーターを着込んでいた。
もちろんこれは「秋が無い国はいかん」ということではない。
普段当たり前のことを気付かないことを、さりげない会話で気付かされることがある。
これは別に外国人との会話だけに当てはまらない。
家には家のしきたりと文化があり、他の家の慣習に驚くのは日本人同士でもままあることである。
「地が出る」とか「育ちがわかる」とははよくいったもので、自分では普通と思っているので気付かない「困ったこと」が、私にも数多くあるに違いない。
心よりお祝いを申し上げます。
近年陛下の胸中を騒がしたてまつる事態が多くあり、一臣としても、恐縮するよりほかありません。
昨日NHKの9時台のニュースにて、天皇皇后両陛下がそのお言葉の原稿に如何に御心を砕いておられるか、臣民のことを思いやっていただいているかを特集していました。
陛下の御代がさざれ石が巌となるまで続くことを畏れ大きことながらまさに願ってやみません。
最近はあまり古本屋めぐりをしていなかったが、ここ2、3日ほど会社帰りに古本屋を1,2件寄っている。
私は京都に行く用事がある時には、しょっちゅう古本屋によっていたのだが、その在庫ぶりでは難波の古本屋もなかなか侮れない。 (この間は戦前の発禁雑誌の全巻揃いなんかが売っていた。さすがに数万単位だが)
場所に関わらずいい古本屋では、 私がいいなぁ、と思うような本(たいてい何らかの資料類だったり研究書だったり全集だったり)は、なかなかどうしてそう簡単に手が出せないような値が付いていたりする。
そこで、圧倒的に安価で手軽な文庫本や単行本を買って、涙を袖で拭きつつ帰るわけだ。
というわけで、古本屋めぐりというのは埃と涙の物語でもあるのである。
某氏が企てるかの一元化について…
御側御用人とか中書令とか、「取次」が権力を握る例は古来より限りなし。
理系グループゆえに歴史は門外漢, ということでもあるまいに。