[外篇/雑感]

五月五日と親殺し / 2005-05-06 (金)

私がウェイルズにいた頃、スーパーで買い物をしていると、おそらく大学院生っぽいおばさんが私に声をかけてきた。

Happy Boys' day!

なんのことかと思ったが、その日はよく考えると五月五日だった。おそらくそのご婦人は、日本人にとって五月五日は男子の成長を祝う日だと聞き、その様に祝意を表してくださったに違いない。

しかし、日本の慣習には「男子の節供おめでとう」というようなものは、私の経験上では(統計的な分母としては少なすぎるものの)無いために、少しとまどってしまって、'Thank you'というようなことを言うに留まってしまった。今から思えば残念だ。

さて、今では「子供の日」という、なんとも情けない名前の祝日となっているが、そもそも五月五日は、五節供のうちの一つ、端午の節供である。もっともこれは本来陰暦なのだが。この「端午」というのは「五日」を意味する。三月三日の上巳の節供(桃の節供)が古くから女子の節供であったのと同様に、端午の節句は伝統的に男子の節供である。甲冑や鯉のぼりの風習は江戸時代に確立したらしい。

ところで、五月五日に関して私の印象に残っているのは、実は『史記』の「孟嘗君«もうしょうくん»列伝」にある話である。孟嘗君は本名を田文といい、紀元前三世紀ごろ中国戦国時代の強国である斉の公子(王家の傍流)で宰相を務めた。後に独立。彼は、いわゆる戦国四公子の一人として、三千人を数える食客を抱えたことが有名な人。

こう書くと、いかにも親の七光りで声望を集めたように思えるけれども、彼はスタート地点では遙かにビハインドがあった。というのも彼の父は子供が四十人おり、自身の母親は身分が賤しい妾だった。しかし、一番問題だったのは彼が五月五日生まれだったからである。

同書によると、当時「五月五日生まれの子は、身の丈が戸口の高さに達すると親を殺す」と言われており、それをもって父親の田嬰は妾に生まれたばかりの田文を捨てるように命じた。妾はこっそりと田文をそだて、長じたのち、父親にあわせた。田嬰は当然激怒した。そのとき、田文は言った:

人生は命を天に受くるか、はた命を戸に受くるか。

人の命が天より授かるものなら人の心配することではないし、戸から授かるものなら戸口を高くすればいいことで、どちらにせよ、心配することではない。田文はそう続けて父親を説得し、その生きる資格を認知させたのである。

その後、その才知を持って、父親をして一目置かせるようになり、その後その四十人の子供の中から後継者に指名された。

というわけで、後の孟嘗君の声望は確かに父親の領地を継いだことも大きいのだけども、そもそも生きるというスタート地点において、田文は自らの手でそれをつかみ取った、と言えるように思う。

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